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コンプガチャは射幸心をあおるギャンブルではない、という詭弁を弄する准教授が慶應大学経済学部にいるらしい

いや、ギャンブルでしょ? ASCII.jpに慶應大学経済学部 田中辰雄准教授からの寄稿と称する奇文が掲載されている。 ソース:ゲームに高額課金者が必要な理由 あまりにも奇妙な文章なので、最初は文意を理解できなかったのだが気になったので何が奇妙なのか考えてみた。 最初に田中辰雄准教授と称する人物についてだが、私はこのような奇妙な人物が実在するのかどうか私は確認していない。 ASCIIがネタに引っかかった可能性は一応排除して、実在の人物として話を進める。 この田中辰雄准教授は寄稿文の中で、欲しいものが結果的に手に入るものは射幸心とはいわない、といっている。 私が最も気になったのは、この結果的に手に入れば射幸心とはいわないという論理だ。 田中辰雄准教授はこう記している。(原文まま)
まず、コンプガチャは射幸心をあおるギャンブルであるという見解があるが、これは正しいだろうか。ギャンブルの定義もはっきりしないところがあるが、典型的なギャンブルは多くのものが金を出し、これを少数の勝者に配分する仕組みである(*1)。  競馬でもカジノでもパチンコでも多くの人が掛け金を出し、ごく少数の勝者がその大半を入手し大きな富を得て、大多数の人は掛け金を失って終わる。勝者と敗者がざっくりと分かれ、多数の敗者から少数の勝者に富の移転が行なわれる。この富を目指して勝者たらんとして挑戦するのが射幸心であろう。  しかし、コンプの場合、回しつづけると回数はかかってもコンプするので、ギャンブルで言う勝者と敗者に相当する人が出てこない。コンプを回した人の言動を見ると、「3回でそろった、ラッキー」「7回でそろった」「10回でなんとか」「15回で出ないのであきらめた」などの言動が並んでいる。  ここで、あきらめたケースを除くと、最終的に目的の強レアを入手していることに注意しよう。その意味では多数の敗者は存在しない。強いて言えば結果として高額支払いになった人が敗者かもしれないが、それでも結局入手はしている。  最終的にあきらめた人の場合でも、目的の強レアは入手していないが、通常のガチャで入手できる弱レアは大量に入手しているので、それをゲーム内通貨に換金すれば、かなりの額を回収できる。  要するに、ギャンブルで典型的に見られる、「少数の勝者に富が集中しそのまわりにすべてを失った多数の敗者がうなだれている」というような構図が見られないのである。  競馬やパチンコなどのギャンブルの場合、お金の投入量を増やせば勝てるわけではなく、ほとんどの人は掛け金を失って敗者となるが、コンプでは投入量を増やせばほとんどの人は目的である強レアカードを入手しておわる。これは通常のギャンブルとは状況が異なっている。 ソース:ゲームに高額課金者が必要な理由
誰が読んでも奇妙な文章だ。 自分でこの文章の奇妙さに田中辰雄准教授が気づいていないとすれば、それは彼が何らかの気の利いた結論先にありきで、それをうまく説明するための詭弁を考えた結果だからだろう。
 競馬でもカジノでもパチンコでも多くの人が掛け金を出し、ごく少数の勝者がその大半を入手し大きな富を得て、大多数の人は掛け金を失って終わる。勝者と敗者がざっくりと分かれ、多数の敗者から少数の勝者に富の移転が行なわれる。この富を目指して勝者たらんとして挑戦するのが射幸心であろう。
まずこの一文がおかしい。 彼はあたかも競馬やパチンコとコンプガチャは違うかのように書いているが、誰にだってわかるとおり競馬もパチンコも、確実に当たり馬券や商品を手に入れることが出来る。その点ではコンプガチャと同じだ。 競馬でも馬券を全通り買うというのは決してめずらしくはないし、パチンコだって金をつぎ込めば目的の商品を手に入れることは出来る。
 競馬やパチンコなどのギャンブルの場合、お金の投入量を増やせば勝てるわけではなく、ほとんどの人は掛け金を失って敗者となるが、コンプでは投入量を増やせばほとんどの人は目的である強レアカードを入手しておわる。これは通常のギャンブルとは状況が異なっている。
なぜ上記のような無知蒙昧な言動が出てくるのか理解に苦しむ。 パチンコを、投入した金額以上の金銭を手にすることを目的としたギャンブルと位置づけているのも気になる。 パチンコはあくまで商品を得るための遊技だ。(完全な建前論だが) 結果的に大金を失っても目的の商品が得られれば消費者が皆満足するというのであれば、構造はコンプガチャとまったく同じだ。 彼の理屈でいえばパチンコにも敗者はいなくなってしまう。 彼の論理を支える屋台骨が既に矛盾している。 矛盾があるのだから、これはもう論理として破綻している。 彼は膨大な長文を書いているが、じつは何も説明できていない。 彼のような詭弁を弄する必要などない。 射幸心をあおるの定義は、「もしかすると1回でも当たりが出るかも」と思わせる行為だ。 現実には大金をつぎ込む場合が多くても、運が良ければ少額で目的を達することが出来ると思わせることだ。
より広い定義としては、取引に不確実性があればギャンブルだとされることもあるようである。しかし、そうだとすると預金を含むあらゆる資産運用がギャンブルであり、さらに就職先の決定も、結婚相手の選択もギャンブルとなる。このような定義はギャンブルの過剰定義であり、少なくとも、「ギャンブルは射幸心を煽るからいけない」というときのギャンブルとは、ここに述べたような狭い定義をとるべきであろう。
田中辰雄准教授は自分でも詭弁だと理解していながら、このような言い訳を添えている。 実際、資産運用はすべてギャンブルだ。 そして結婚相手の選定もギャンブルだ等というのは、小学生以下の頭の悪い発言だ。どこの世界に射幸心を煽る婚約者がいるのだろうか? それとも彼にとっての結婚とは、つぎ込んだお金を回収する作業ということか? (このあたりの発言で私は田中辰雄准教授というのは、どこかの誰かが釣りでASCIIをひっかけた架空の人物だろうと確信した) 今回問題になっているのは、もちろんギャンブルかどうかではなく、その射幸心を煽る手法と、その悪質さの度合いだ。 だからパチンコも競馬も悪質になりすぎないように手法を制限しているのだ。 テレビでも新聞でも、子供にもわかるようにかみ砕いて説明していた。 それすら理解できない慶應大学の准教授など、この世に実在するはずがない。